日経オンラインセミナー( 2 月 18 日開催)の講演レポート
企業経営において「人的資本経営」が注目を集めています。非財務情報の開示義務化、ESG 投資の加速、AI 活用による業務変革が進む中、人的資本をどのように戦略的に活用し、企業価値向上に結びつけるべきでしょうか。本イベントでは、人的資本経営の概要と実践的アプローチ、データドリブンな人事戦略の具体例、そして SAP SuccessFactors を活用した HR テクノロジーの可能性について、青山学院大学の山本 寛氏、富士通の平松 浩樹氏、SAP ジャパンの佐々見 直文の3名が議論しました。人材ポートフォリオの重要性、社員主導の人事戦略、AI によるスキル可視化など、AI 時代における人的資本経営の未来像を探ります。
〇登壇者
青山学院大学
経営学部 教授
山本 寛氏
富士通株式会社
取締役執行役員
SEVP CHRO
平松 浩樹氏
SAP ジャパン株式会社
人事・人財ソリューションアドバイザリー本部 本部長
佐々見 直文
人こそが資本!経営戦略としての人材活用法
昨今、企業経営者との対話で「人的資本経営」が主要な話題となっていることから、青山学院大学の山本氏は人的資本経営の概要とその実践的アプローチについて解説しました。
人的資本は「経済的価値を持ち、投資で増やせる人の特性」を指します。従来は知識やスキルが中心でしたが、OECD の定義改訂で先天的な能力も含まれ、採用時の見極めがより重要になりました。また、経済産業省は、人的資本経営を「人材を資本とし、企業価値向上を図る経営」と定義。単なる情報開示ではなく、価値を高める施策が非経済的・経済的利益につながるとしています。近年、非財務情報への関心が高まり、ESG 投資の「S(社会)」として人的資本への注目が増加していることから、人的資本情報の開示は今後ますます不可避となっています。
「人的資本経営の主要な視点は、『経営戦略と人事戦略の連動」、『現状と目指すべき姿のギャップの定量把握」、『長期的な企業文化への定着』の 3 点です。これらを実現するために、動的な人材ポートフォリオ、多様性の推進、リスキリング、従業員エンゲージメント向上、柔軟な働き方などが重要な手段となります」(山本氏)(図 1 参照)
(図 1 )
しかし、パーソル総合研究所が行った調査を見ると、経営と人事が連動した戦略策定をしている企業は 6 割、人的資本情報をデータとして蓄積・更新するシステムを導入している企業は 3 割程度にとどまっています。「一例として、人的資本経営の主要な視点を実現している SAP では、従業員の定着や離職防止を含む経営管理指標に基づき、経営戦略と人事戦略を連携させています。また、人事戦略が企業目標に与える影響を定量的に分析し、その過程と結果を開示しています」(山本氏)
人材ポートフォリオをつくる鍵は、AI などの先端テクノロジー
人材ポートフォリオは、企業における人材配置や開発、採用を可視化し、戦略的に活用するための基盤として重要視されています。これを活用することで適性に応じた配置が可能になり、社員一人ひとりのキャリア形成を支援できます。企業全体にとっては、特定部門の人材の過不足を把握し、戦略的な人事計画を立てることが可能になるため、これらの可視化には主観的な人事評価ではなく、資格や適性検査などの客観的な指標が求められます。最近では、AI などの技術を取り入れることで迅速な分析・可視化を行うことが可能となりました。(図 2 参照)
(図 2 )
組織運営において近年注目されているのが、スキルに基づいた人材ポートフォリオやスキルベースの考え方です。従来のジョブ型雇用に加え、個々のスキルを柔軟に活用することで、変化するビジネス環境に適応しやすくなるからです。特に、移転可能なスキルや IT スキルの重要性が指摘され、企業は社員のスキル獲得を支援することが求められています。「人材ポートフォリオは人的資本経営の最重要課題ですが、一方で適切な人材配置の難しさも浮き彫りになりました。全ての企業がジョブ型に移行していない現状では、適材適所の配置は容易ではなく、戦略を立てられる人材の不足も大きな障壁です。さらに、人が持つスキルは時間とともに陳腐化する恐れがあるため、客観的に測定し、時代の変化に応じて組み合わせていく方法論が求められています」(山本氏)
社員が主役―これからの人事戦略の新潮流
人事戦略は、社員側の視点も考慮する必要があります。山本氏、富士通の平松氏、SAP ジャパンの佐々見によるディスカッションでは、「なぜ今社員起点の人事が必要なのか」をテーマに議論が交わされました。従来の日本企業では企業主導で社員の配置転換や昇進を決めるのが一般的でしたが、平松氏が所属する富士通ではポスティング制度を活性化し、社員が自ら希望する職務に応募するという流動性を高める取り組みを進めています。「SAP SuccessFactors のような HR テクノロジーが社員起点の人事を可能にする要素として、『 AI によるスキルの可視化』が重要です。従来は自分の専門性やスキルを客観的に把握することが難しかった社員も、AI が上司との 1on1 ミーティングの記録やシステム内のコメントを分析し、自動的にスキルをタグ付けすることで自己理解が進みます。また、社内のキャリア機会やそのために必要なスキル、スキルギャップを埋めるための研修など、キャリア形成に必要な情報が自動的に連携することで、社員主導のキャリア開発が実現するでしょう」(佐々見)(図 3 参照)
(図 3 )
「 AI によるスキルの可視化が専門性の向上にもつながると考えられます。社員個人のスキルやそれを裏付ける資格、社内のスキル分布が明確になることで、戦略的な人材育成や適切な配置が可能になります」(山本氏)
富士通が挑む、変化に強い人的資本経営による持続的成長
IT 企業からグローバル DX 企業へと変革を遂げようとする富士通は、企業価値の持続的向上を実現するために人的資本経営に本格的に取り組んでいます。平松氏のセッションでは、富士通が実践する人的資本経営の全体像から、SAP SuccessFactors の導入、AI やデータ分析を活用した人事戦略の変革まで、その取り組みと成果が共有されました。富士通は、「イノベーションによって社会に信頼をもたらし、世界をより持続可能にする」というパーパスを掲げ、社会課題を起点に業種を超えたデジタルサービスを提供しています。2030 年のあるべき姿から逆算して中期計画を策定する中で、経営戦略と人材戦略をいかに連動させ、戦略的な投資や定量的な KPI 設定によって持続的な成長につなげるかが課題となりました。そこで、人的資本経営を実践するために「人的資本価値向上モデル」が構築されました。これは、富士通だけでなく複数の企業の CHRO(最高人事責任者)が議論を重ね、「人的資本経営が企業の持続的成長にどう貢献するか」を追求して生まれたものです。(図 4 参照)
(図 4 )
このモデルは大きく 2 つの領域に分類されます。1 つは「成果を生む取り組み」で、ビジョンや中期戦略に基づく人材ポートフォリオの定義、ギャップ分析、人材要件の明確化、人材の配置・獲得・育成など、ビジネスと直結する施策を指します。もう 1 つは「持続的効果の取り組み」で、エンゲージメント向上や DE&I(多様性・公平性・包括性)、自律的な人材育成、人材流動性向上といった組織風土の改革を含みます。「富士通は、人事施策の可視化と KPI 分析を進め、エンゲージメント向上と人材ポートフォリオの強化に注力しています。人的資本経営の鍵は『将来の人材ポートフォリオと現状のギャップの明確化』と『キャリアオーナーシップによる人材流動性』の 2 つです。当社では事業ポートフォリオの変化に応じた人材戦略を展開しています」(平松氏)
グローバル標準と日本流の融合による人材データ革命
富士通は「OneFujitsu」というデータドリブン経営の基盤となるグローバル共通のシステムを導入し、その取り組みの一環として「OnePeople」と名付けられた人事システムとして、SAP SuccessFactors を採用しています。このシステムはグローバルスタンダードに準拠することを基本方針とし、特に日本に特有の人事制度をできるだけ「Fit to Standard」で運用することを目指しています。これにより、生産性の向上と情報の可視化を実現し、人材データのグローバルでの一元管理が可能になりました。また、AI の活用によるスキルタグ付けにより、社員の成長機会が最適化されました。例えば、ある業務に必要なスキルと社員の持つスキルのマッチングや、キャリア開発のための推奨学習コンテンツの提供などが自動化されています。富士通はデータドリブンな人事戦略を展開するためデータ分析を実施しています。例えば、コミュニケーションデータと成績データ、エンゲージメントデータなどを掛け合わせ、パフォーマンスの高い社員の特徴を抽出した結果、成績優秀者は多様なつながりを持つ傾向が強いといったことが判明しました。また、富士通独自の AI 分析技術を活用し、エンゲージメントスコアに影響を与える要因の分析も行っています。
こうしたデータ分析に基づいた施策の成果として、ポスティング制度の活性化が挙げられます。2020 年からポスティングの大幅拡大を宣言し、4 年間で約 27,000 人が応募、約 10,000 人が異動しました。また、リスキリングやキャリアオーナーシップを支援する取り組みにより、自己学習の総学習時間は 2020 年度比で 4.4 倍に増加しています。社内の人材流動性も高まり、それが中途採用の拡大( 2023 年度は前年比 1.32 倍の 1,083 名)や、新卒採用の増加(同 1.36 倍の 1,037 名)にもつながっています。(図 5 参照)
(図 5 )

AI が変える、日常の人事業務と学びの風景
パネルディスカッションでは、AI や HR テクノロジーがもたらす可能性と課題について、実務的な視点から活発な議論が交わされました。富士通は、2018 年頃から人事チャットボットを導入し、就業・休業制度に関する問い合わせに 24 時間対応できる体制を整えました。これにより、人の関与を半減させつつ、問い合わせ件数は 4 倍に増加しました。また、学びのプラットフォームである「富士通ラーニングエクスペリエンス」では、個人の希望に基づいたコンテンツやポジションのレコメンド機能を実装し、学習時間の増加につなげています。富士通での取り組みに続け、SAP からは「ビジネスAI」が紹介されました。基盤技術として外部の大規模言語モデル(LLM)と連携し、AI による給与計算結果の詳細説明の導入など、人事部門の負担を軽減するような業務プロセスとの組み合わせに注力しています。(図 6 参照)
(図 6 )
自律と信頼の好循環を生み出す戦略的な HR テクノロジー活用
HR 領域へのテクノロジー導入は、単にツールを導入するだけでは不十分であり、組織や人事制度の変革と連携させることが重要です。「人的資本経営の目標や人材ポートフォリオを明確にし、適切な KPI を設定することで初めてツールが効果を発揮します。また、組織単位でビジョンを持ち、PDCA を回しながら活用する必要があるでしょう」(平松氏)それに続けて、「 HR 施策の推進には社内の理解が不可欠であり、CHRO が取締役会や株主に施策の目的や期待される成果を説明する能力が求められます」といった山本氏からの指摘が入る一方、平松氏は「部下のことは自分が最も理解しているという従来の考えでは組織の流動性を高められず、データを活用し人材の適性を可視化することが効果的な人的資本経営につながるのではないでしょうか」と指摘しました。
「 SAP のソリューションでは、社員のスキルを自動分析し、最適なキャリアパスを提示する機能が導入され、企業の成長を支えるツールとして活用が進んでいます。実際に、デルタ航空の事例では、カスタマーフェイシング職の 25 %を基幹職へ登用するという目標のもと、従業員の自律的キャリア実現を支援しています。具体的には、AI による職務要件の明確化とキャリア実現のための研修等の具体的なアクションプランの提案により、個人の成長とモチベーション向上を実現しています」(佐々見)
登壇者である 3 名は、最後に、HR テクノロジー活用の鍵はデータ蓄積と因果関係の分析であると指摘し、テクノロジーを活用して社員に情報と機会を提供し、自律と信頼の関係を築くことが人的資本経営の成功につながると述べ、講演を締めくくりました。