ビジネスの持続的成長に向け、ESG(Environment, Social, Governance)への取組みを企業価値にどう結びつけるか、多くの企業が模索している。近年、世界のESG投資は37兆ドルを突破。企業の市場価値における無形資産の割合も1975年の20%に比べて2015年は80%と、企業価値に占める比率が逆転し、ESG経営の重要性は高まる一方だ。
ここでは2021年7月15日SAPPHIRE NOWでご講演いただき非常に高い評価を受けたエーザイ柳氏の先進的な取組みを紹介する(*1)
ESG × DIGITAL
革新的な創薬、医薬品アクセスの向上に力を注ぐエーザイ社は、ESG経営に取り組む日本企業の先駆けだ。同社の専務執行役CFOであり、早稲田大学の客員教授も務める柳良平氏は、現代の企業経営にESGが与えるインパクトを強調する。
その潜在的なESGの価値を顕在化する鍵がデジタルを活用したESGの定量化であり、これが世界の投資家を説得するエビデンスにもなるということを大学教授として実証研究し、エーザイCFOとして自ら実践している柳氏の取組みから示唆を受けることは多い。
潜在的価値を顕在化するためのフレームワークと実践 ~「柳モデル」の訴求~
同社は「見えない価値を見える化する=潜在的価値(ESG)を顕在化する」ために以下4つの取組みをトータルパッケージで推進している。
- 概念フレームワークの提示(ESGと企業価値の結びつきを提示)
- 実証研究のエビデンス提示(デジタル活用:非財務データの重回帰分析)
- 統合報告書での具体的な開示(非財務情報と企業価値との相関関係・定量効果を開示)
- エンゲージメントの蓄積(年間800回を超えるESGエンゲージメント)
1. 概念フレームワークの提示(ESGと企業価値の結びつきを提示)
同社のESGと企業の結びつきを説明する概念フレームワークが、柳氏の考案した「非財務資本とエクイティ・スプレッドの価値関連性モデル(柳モデル)」である。
このモデルで重要な指標が「PBR(株価純資産倍率)」だ。PBRは1倍までが財務資本の価値で、1倍を超えて初めて非財務資本やESGの価値となる。人材、特許や研究の価値、環境問題への対応などが株主から認められれば、必然的にPBRは1倍以上になる。
過去10年のPBRを見ると日本は1、イギリスは2、アメリカで平均3倍程度だ。これに対して柳氏は次のように語る。「本来ESGの国と言っても過言でない日本企業の潜在価値を明示できればPBRは確実向上できます。そしてこれはPBRに非財務価値が十分に織り込まれていない日本企業こそ注力すべき取組みになります。」
2. 実証研究のエビデンス提示(デジタル活用:非財務データの重回帰分析)
「柳モデル」をデータによる実証研究で進化させる契機となったのが、SAP社のサステナビリティ経営をリードしているSAPグループCFO ルカ・ムチッチ氏との出会いだ。2016年にロンドンで開催されたIIRC(国際統合報告協議会)とICGN(国際コーポレートがバンナンスネットワーク)のジョイントカンファレンスに事業会社代表としてパネルに招かれた2人の出会いが契機となり柳氏の「ESG X DIGITAL」の旅が始まった。
柳氏は外部パートナー企業(アビームコンサルティング(*2))のサポートを得てESGのKPIとPBRの相関関係の分析に乗り出した。ESGのKPIは、CO2排出量、女性管理職比率、人件費、研究開発費、障がい者雇用率など約88種類を抽出。平均で12年前まで遡ってデータを用意して28年分のPBRと可能な限り照合した。さらに研究開発費など、長期で株価に効いてくる遅延浸透効果も考慮して10年分の期ずれを折り込み、約10,000件のデータを用いて重回帰分析を実行。その結果、統計学的に信頼性が高く、PBRと正の関係を示す要素を20個弱得ることができた。
3. 統合報告書での具体的な開示(非財務情報と企業価値との相関関係・定量効果開示)
こうした「ESG x DIGITAL」による実証研究結果を、非財務情報と企業価値の相関関係・定量効果として統計学的有意性を含めて統合報告書で開示することによりステークホルダーとのエンゲージメントに役立てている。
「人件費投入を1割増やすと5年後のPBRが13.8%向上する」
「研究開発投資を1割増やすと10年超でPBRが8.2%拡大する」
「エーザイのESGのKPIが各々5年~10年の遅延浸透効果で企業価値
500億円~3000億円レベルで創造することを示唆」
など
こうした数値に基づいたエビデンスは例えば短期志向のヘッジファンドから「研究開発費や人件費を削り短期的な収益改善を図れ」というプレッシャーがあってもエビデンスを示して反論する強力な武器になる。
投資と効果の時差を織込んだ分析も非常にユニークだ。柳氏は「女性管理者比率を上げても今すぐ株価は上がらない。女性管理者が異なる角度から提言して経営者に新たな気づきがあり、その女性管理者を見て自分も先輩のようになりたいという正の循環が回り始めて成果につながる」と遅延浸透効果を補足する。
そして柳氏は「こうした効果はエーザイだけで自分たちは関係ないと思わないで欲しい」と説く。TOPIX 100、500 企業全体の傾向を見ても人材への投資、研究開発への投資が企業価値向上に遅延浸透効果を持って寄与している実証研究結果を示し、日本企業全体としての取組みを呼びかけている。
4. エンゲージメントの蓄積(年間700回を超えるESGエンゲージメント)
柳氏だけで年間200回、IRチーム含めると年間国内外で800回に及ぶ地道なESGエンゲージメントを積み重ねている。エンゲージメントでは研究開発なら将来の薬の種となる新薬パイプラインやプログラムなどの説明を行い、企業価値との正の相関関係と因果関係の結び付けを行っている。
また、人件費や研究開発費は人的資本・知的資本への投資として営業利益に足し戻すESG EBITやハーバードビジネススクールとの共同研究に基づく従業員インパクト会計といった新しい管理会計上の取組みも積極的に推進して、社内外のステークホルダーとのエンゲージメントに役立てている。
このように「概念フレームワークの提示」、「実証研究のエビデンス提示」、「統合報告書での具体的な開示」、「エンゲージメントの蓄積」をトータルパッケージで実践し続けていることが潜在的価値の顕在化に繋がり、投資家が非財務価値を織り込んで同社を評価していることがPBR推移から伺える。
パーパスとの整合性
「本会社の使命は患者様満足の増大であり、その結果として売上、利益がもたらされ、この使命と結果の順序を重要と考える」という同社パーパスそのものがESG経営であると言える。しかし、そこで立ち止まることなく患者様満足の増大に向けた研究開発・人材投資が遅延効果を持って売上/利益に貢献することを定量的かつ統計的有意性を持って証明し、ステークホルダーとのエンゲージメントを積み重ねている。柳氏の「ESG × DIGITAL」の取組みは、中長期志向の投資家とのエンゲージメント強化の礎になるだけでなく、まず患者様満足の増大がありその結果として企業価値が上がるという同社のパーパスそのものを証明したという言い方もできるであろう。
外部パートナーサービスとSAP ANALYTICS CLOUDなどのデジタルテクノロジー(*3)を上手く活用し、SAP ERPに蓄積した財務データとESGデータを含む非財務データを用いて重回帰分析を実施し企業価値の創造を加速させている同社の取組みは、多くの日本企業が本来持つESG価値を顕在化させる上で示唆に富む実践事例と言えよう。
*1: 2021年7月15日 SAP社SAPPHIRE NOW エーザイ社柳様ご講演「エーザイにおけるESG/非財務指標の織り込み方 ~柳モデルの訴求~」サマリーになります。
*2: アビームコンサルティング
Digital ESG経営管理 | アビームコンサルティング (abeam.com)
*3: アビームコンサルティング、エーザイともにSAP ANALYTICS CLOUDを分析ツールとしてご利用いただております。
*参考文献:
CFOポリシー 柳良平著 中央経済社
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エーザイ統合報告書2020 統合報告書2020 (eisai.co.jp)