順調に事業を拡大してきた多くの中堅・中小企業に立ちふさがる成長の踊り場とされるのが「売上高 100 億円の壁」です。この壁を乗り越えて持続的な成長を実現するためには、適材適所で進めてきたそれまでの業務プロセスをゼロから見直さなければなりません。観賞魚用のアクアリウム、小動物・犬猫・爬虫類などのペット用品の製造・販売を手がけるジェックス株式会社は、「100 億の壁」に先にある未来の成長を支える基盤として SAP S/4HANA® Cloud Public Edition を採用し、事業の全体最適化と組織のケイパビリティ強化を目指しています。この記事では、2026 年 1 月の本稼働に向けて Fit to Standard の手法で新たな基幹システムの導入を進める同社の取り組みを紹介します。
イノベーションを生み出す新たな成長基盤の再構築
東大阪市に拠点を置き、2027 年で設立 50 周年を迎えるジェックスは、金魚や熱帯魚など観賞魚の飼育に必要な水槽やエアーポンプなどのアクアリウム用品の製造・販売で国内トップクラスのシェアを誇るメーカーです。近年は小動物、犬猫、爬虫類などの飼育用品にも事業を拡大し、ペット用品の総合メーカーとして成長を続けています。
年商 113 億円(2024 年 12 月度)、従業員数 124 名の同社が今後も持続的な成長を実現するためには、競争が激化する市場における新たな成長・競争戦略(外部戦略)と経営資源の最適化戦略(内部戦略)を合致させ、イノベーションを生み出し続けるための経営体質の改善を図る必要がありました。
そこで同社は属人化した業務プロセスを打破し、組織のケイパビリティを強化しながら、競争優位性を維持していくための全社規模の業務改革に着手しました。代表取締役社長の五味宏樹氏は「ヒト、モノ、カネ、情報、時間、知的財産の 6 つの経営資源の中でも、中小企業はヒトの成長がなければ継続的な発展は望めません。どこの中小企業でも経営改革は進めていると思いますが、自分たちの力だけでは追いつけないほど外的環境が急速に変化する中、これまでのように自社に閉じたままの改善の繰り返しだけでは限界があります。会社の成長にあわせてシステムも進化させないといけないと考え、先進的な企業と比べて遜色のないレベルのロジスティクスやサプライチェーンマネジメントを実践するための基盤として、新たな ERP の導入を決めました」と話します。
ブラックボックス化した既存の基幹システムの課題
ジェックスの既存の基幹システムは、30 年近くにわたって運用してきたオフコンベースのスクラッチシステムで、長年にわたる運用の中でブラックボックス化が進んでいました。年商が 50~60 億だった約 15 年前には貿易部門のグループ会社が生産調達系の業務領域で中堅・中小企業向け ERP 製品である SAP Business One®を単独で導入し、将来的には本社の基幹システムを SAP Business One に統合する構想を描いていました。しかし、ジェックス本体と貿易部門のグループ会社がそれぞれ独自のやり方で各システムを使い続けていたため思った通りに進まず、かえって個別最適の深刻化を招く結果となっていました。
DX 部 部長の中山裕行氏は「システムを統合するどころか、販売側と購買側でシステムが分かれているために、リアルタイムかつ 1Fact1Place が実現できていませんでした。さらに複数システムを併用するための膨大なアドオンによって運用保守に大きな負荷がかかり、ベンダー依存から抜け出せない状況になっていました。ユーザー側にとっても業務プロセスとマスターが分断され、それぞれで作業が必要になります。このままの複雑化したシステムでは将来に引き継ぐこともできないため、変化に追従できる新たな基幹システムへの移行は待ったなしの状況でした」と話します。
「COO 養成塾」での学びが再チャレンジを後押し
過去の失敗を乗り越えるべく、ERP を活用したシステム統合への再チャレンジを決断した同社は、グローバルでの実績を評価して SAP S/4HANA Cloud Public Edition の採用を決めました。
「当社では、約 20 年前にインドネシアの工場でも海外製の ERP パッケージを導入し、現在も利用しています。このシステムは、当初から調達、生産計画、出荷、販売、会計管理までカバーし、正しい数値を確認できる統制の取れた ERP は事業の武器になると考えていました。今回もこうした仕組みを念頭に検討し、日系のベンダーからは海外拠点も統合するなら SAP がいいというアドバイスをもらいました」(五味氏)
複数の ERP パッケージを検討する中で、SAP S/4HANA Cloud Public Edition を選定する大きなきっかけになったのは、SAP ジャパンが主催する「COO 養成塾」(2024 年 5 月~7 月)に中山氏が参加したことでした。
SAP の COO 養成塾は、CEO から直接派遣される日本企業の次世代リーダーを対象とした 3 カ月にわたる計 6 回のプログラムです。SAP の変革事例を題材に、講師や同じ立場の受講者との議論を通じて、自社の課題、進むべき方向性、変革のアプローチを構想し、最終的な成果物のプレゼンテーションを行います。
「ERP の導入を経営陣に上申するにあたり、右も左もわからなかったことから、藁をもつかむ思いで COO 養成塾の門を叩きました。プログラムの内容は IT に関することは一切なく、リーダーシップを発揮して社内改革を進めるための心構え、方法論、事例紹介が中心でした。その事例を自社に置き換えて検討し、COO 養成塾の学びをアウトプットとして上申しました。COO 養成塾で参加者と議論を重ね、相対的に自社の立ち位置を確認したことで、標準化を進めるためのストーリーや改革後に必要な要素などを具体的にイメージすることができました。さらに最終的なゴールである“北極星”を見据えて、プロジェクトのメンバーが高い志を持ちながら、同じ方向に向かって進むことの重要性を改めて理解することができました」(中山氏)
SAP S/4HANA Cloud Public Edition の導入は、COO 養成塾での学びをもとに業務をシステムに合わせる「Fit to Standard」を基本方針とし、プロジェクトの開始前には標準機能でどこまで適応できるかを評価するために、SAP が用意している「Discovery Workshop」というワークショップ形式のアセスメントによって各業務部門の適合レベルを診断しました。
「Fit to Standard は初めてのチャレンジで不安もある中、検討段階で事前にアセスメントを推進したことで導入に関する不安が解消され、“これなら行ける”という手応えを得ることができました」(中山氏)
Fit to Standard による複数モジュールの短期導入
プロジェクトは 2024 年 10 月にキックオフし、1 年 2 カ月後の 2026 年 1 月の本稼働をターゲットに導入を進めています。2024 年 12 月現在は準備・計画フェーズとして、IT 部門と業務部門のキーユーザーに対して、SAP の理解、Fit to Standard などに関するワークショップを開催し、さらに重点ポイントの検討やマスターデータの整備なども進めています。2025 年 1 月からは適用設計フェーズに移行し、基本設計をスタートさせています。
SAP S/4HANA Cloud Public Edition のモジュールは、販売、在庫・購買、財務会計のビッグバン導入とし、スモールスタートで推進しながら継続的に価値を高めていく方針です。
「業務プロセスやマスターデータが分断されている既存の基幹システムにおいて、バリューチェーンも含めた早期の全体最適化を図るにはビッグバンで短期導入を実現し、キーユーザーのマインドセット改革を同時に進めるのがベストだと判断しました。ただし、最初から 100 点を目指すと時間だけが過ぎてしまい、意思決定の遅れによってプロジェクトが停滞するリスクがあります。そこで、60 点から始めて短いフェーズで区切りながら改善していくことにしました」(中山氏)
経営陣の参画によるスピーディなプロジェクト推進
プロジェクトは五味社長がプロジェクトオーナー、中山氏がプロジェクトマネジャーを務め、販売、購買在庫、財務会計部門のキーユーザーが参画する体制で進めています。キーユーザーは能動的に動ける専任のメンバーを選定し、現場判断の意思決定によりプロジェクトに遅延が生じないようにしています。
プロジェクトを統括する DX 部は、2020 年に社内 DX の加速に向けて新たに設立された組織で、当初は SaaS ソリューションの導入を主なミッションとしていました。その後、2022 年に既存の情報システム部を統合する形で再スタートしています。
「属人化や硬直化によって新陳代謝が起こらない既存の情報システム部を変革するべく、柔軟な発想を持つ社員を新たに集めて組織とヒトを再構築したのが新生 DX 部です。旧情報システム部の時代は国産のシステムに固執し、自分たちの業務にシステムを合わせることにこだわってきました。そのため、以前は“ジェックスに海外製 ERP は無理だ。SAP は無理だ”と言われていましたが、今回は COO 養成塾で学んだ中山を中心とした DX 部がプロジェクトを主導することで、確実な成果が生まれることを確信しています」(五味氏)
プロジェクトでは 2026 年 1 月の本稼働と Fit to Standard による業務の標準化を厳守するべく、経営陣の積極的な参画によって早期の意思決定を支援し、トップダウンでスピーディに進めています。
「商品力、マーケティング力、営業力はどこにも負けない自信がある中で、システムや業務の仕組みのネックをいち早く解消しなければ、外資系や大手企業を含めた競合他社と戦っていくことはできません。先進的な企業にいち早く追いつくためにも、私自身がプロジェクトの先頭に立って、絶対に成功させる思いで外部戦略と内部戦略を推進していきます」(五味氏)
社員のマインドチェンジによる競争優位性の確立
SAP S/4HANA Cloud Public Edition の導入でジェックスが目指す成果は、中期経営計画の基本方針である「いきものとの暮らしの価値を最大化し提供する」を実現するための事業基盤の整備です。具体的には「業務プロセスの変革(業務の標準化、効率化)」「戦略的なデータ活用」「M&A を含めた事業環境の変化への対応」の 3 点が挙げられます。その中でも五味社長が最も期待を寄せているのが、業務プロセスの変革による社員のマインドチェンジです。
「現在の当社は、目の前の業務を改善するだけの中小企業特有の仕事の進め方にとどまっています。SAP S/4HANA Cloud Public Edition の導入で“仕事の質”が変わることで、先進企業と同レベルの生産性を追求できるようになれば、社員のマインドセットも大きく変わり、最終的に組織のケイパビリティの強化や持続的な競争優位性の確立につながると信じています」(五味氏)
2 つめの「戦略的なデータ活用」についても、一元化された SAP S/4HANA Cloud Public Edition 上のデータによって可視化・分析に取り組み、業務への活用を目指しています。
「現状の基幹システムのデータやマスターはあちこちに分散していて、どれが“正”かが明確でなく、連携しているようでつながっていません。ワンデータになることで、情報の精度は格段に向上して正しい経営判断が下せるようになるはずです」(五味氏)
同様に中山氏も「データを一元化し、BI ツールを提供するだけでは十分ではないため、教育プログラムを通じてユーザーが業務で効率的に利用できるようにプロセスをルール化していく予定です」と話します。
最後の「事業環境の変化への対応」についても、将来的な M&A(買収、合併、提携)のあらゆるパターンにおいて、システムが足かせになることなくスムーズかつ優位に進むことが期待できます。
国内外のシステムを統合し、継続的にプロセスを改善
2026 年 1 月の本稼働後は、インドネシア工場で運用している既存の ERP パッケージを SAP S/4HANA Cloud Public Edition に移行し、将来的には国内外のすべてのシステムを統合する計画です。さらに、今回同時に採用した SAP Business Technology Platform(SAP BTP)によるシステム拡張や、SAP Signavio® による継続的なプロセス改善も進めていく方針です。
「SAP BTP は、データの統合と分析、AI 活用、アプリケーション開発などを支える包括的なプラットフォームであることから、今後の拡張開発において大きな価値を発揮します。また、ビジネスが成長してく中で AI や機械学習といった最新テクノロジーを活用することで、新たなビジネスインパクトが共有できることを期待しています」(中山氏)
「100 億円の壁」のさらに先にある未来に向けて、SAP S/4HANA Cloud Public Edition の導入による業務改革に乗り出したジェックス。同社がプロジェクトに向き合う姿勢と導入の方法論は、同じ悩みを抱える中堅・中小企業の貴重なモデルケースになるはずです。
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